それって本当にそう言える?
僕がプヲタとしてTwitterをやっている理由の一つに、「他人の意見を見て、自分のプロレス観をもっと育てたいから」というものがある。
他のプヲタが発信してるツイートを見て、「ああ、なるほど。そういった発想は自分にはなかった」と納得したり、「それは違う」と思ったり。
最近はこんなツイートが目に留まり、色々考えさせられた。
プロレスを長く見たりしてると「評論家」みたいになって行く。目の前の衝撃を目の前の感動をまっすぐに感じれなくなって行く。最後は不感症。大事な何かを無くさないでほしい。会場に向かう時のワクワク〜試合でのドキドキ〜帰り道の高揚。理由も理屈も法則もない。無くしてないか?
— 鈴木みのる (@suzuki_D_minoru) 2018年8月5日
基本的に僕は活字世界においてはレスラー第一主義。実際にプロレスを“やってる”側の思いに“見る”専門のプヲタがああだこうだと文句を言っても仕方がないことが多いと思ってる。
たまに残念に思って空リプぶっかますけどネ
だけどこのツイートに関しては言える。だってコレ、プヲタ目線で語られてるから。レスラーのほうがプロレスについて理解してるのは当たり前。でも事プヲタ論に関してはこっちも理解してるし、語る資格がある。
プロレスにおいて、レスラーは作り手(メーカー)であり、ファンは消費者である。このツイートはメーカーが消費者たちの意見に苦言を呈しているようなもの。「お前らのその腐った感覚どうなの?」と言ってるようなもの。それってどうなのか。
そりゃファンだって、長くプロレスを見ていれば達観していく。「あの終盤の弱いエルボー合戦しょうもなかったな」と思うことだってあるし、「フィニッシュは残念だったけど試合内容は最高だったな」と思うことだってある。「不感症」なんて一概には言えない。プロレスと出会った頃に比べたら感動する回数が減ったことは確か。でも実際に会場で試合を見て感動することもあるし、まずどの試合に対しても「しょうもない」と思うことなんてない。
これはプヲタにおいてじゃなくたって当てはまる。子どもの頃は時が長く感じるけど、大人になったら時が短く感じる。一年があっという間に感じる。これは大人になるにつれて感動する回数が減るから。子どもの頃は色んなコトやモノを見る度・知る度に新鮮味を感じ、感動していた。しかし、大人になるにつれて、日常のほとんどが見慣れた景色となり、感動する回数が減っていく。だが、感動すること自体がなくなるわけではない。あくまで感動する回数が減るだけ。それは仕方のないことだし、「無くしてないか?」と言われても、「はい。無くしてますけど、取り戻すことはできません」としか言えない。それに加えて、生観戦なら試合前にワクワクしたり、帰りに余韻に浸ったりすることだってちゃんとあるよと。
こういったロジックを理解して、いつだって面白いプロレスを提供し、見る者の人生をより楽しませるのがプロレスラーだろと僕は思う。ファンを批判する前にプロレスでファンを黙らせてよ。
SNSという、99人が賞賛しても、一人が大批判したらその批判した人が目立っちゃうような世界に鈴木みのるが惑わされちゃってんじゃないかなと思う。SNSで教祖化した鈴木みのるはあんまり見たくない。
まあかくいう僕もSNSプロレス界に惑わされて狂わされてきた身なんだけどね…